▶自己愛的社会  

 

神への疑問から、ニーチェは神は死んだということばで表しました。宗教よりも科学が強くなり、ヨーロッパ人の心に変化が起こり、みんなのこころが自由になりました。日本でも多様性が以前よりずっと認められるようになりました。そんな現代社会は、自分のことが大好きという自己愛に溢れています。子どもたちの無規範さは、自己愛性パーソナリティの要因となっています。  

 

▶自己愛性パーソナリティ障害研究

 

己愛性パーソナリティ障害の研究は、精神分析家のオットー・カーンバーグとハインツ・コフートが有名です。コフートは、自己愛の障害を親が共感に失敗することから生じる自己の欠損に由来するものと考えており、「自己愛パーソナリティ障害の患者の問題は自己体験の断片化から生じる」と述べています。

 

①物質的には満たされた環境にあっても、自分は空虚で、ばらばらで、価値がないと感じる。

②実際の業績がほとんどなくても、自分は著しく価値があり特別な存在だと思う。

③自分の価値を他者や社会が承認してくれることを求め、それが得られないと、引きこもったり、激しい怒りを示したりする。

④他者を過剰に理想化して褒め称えたいと願い、他者がそのような理想化の対象であり得ないと裏切られたと感じる。

⑤執念深い怒りを示したり、倒錯や嗜癖、心気症的不安を発展させたりする。

⑥自分が失敗すると羞恥心に圧倒される一方、相手の失敗には不寛容。

 

自己愛性パーソナリティ障害の人は、劣等感が強く、脆く壊れやすい自尊心を抱えています。小さな過ちであれ、他者からの批判を処理することができず、自己価値観を正当化する試みとして、しばしば他者を蔑み軽んじることで内在された自己の脆弱性を補おうとします。また、強迫観念または強迫行為があり、すべてを自分の思い通りにコントロールしようとし、それが可能であるという万能感を持っています。これらの背後には、生得的な脆弱性や幼少時代の親子関係の不安や不全感がベースにあると考えられます。子どもの頃の親のケアの不足により生じた私は人間であるという体験の喪失があるため、行為や思考を強迫的に反復して完全を期すことは、自己不全感、人間不信という根源的不安を防衛し、さらに、不確かさを排除して、自分が特別で偉大な存在であるという立場を守ります。  

 

▶精神の極(傷つくことを避けるために精神世界に閉じこもる)

 

性被害や虐待などに遭った人は、身体から分離して、眼差しとしての視点から自分を見ており、精神への親和性を高めることがあります。そして、精神は完全性や理想を求めていますが、身体は耐え難いトラウマ体験と同一化しているため、肉体への破壊願望に囚われることがあります。精神(他者との関係で承認された良い部分)のほうが身体/情動(他者との関係で不承認される悪い部分)を批判したり、なんとか追い出そうとしたりするので、高められた精神性と低められた身体/情動の間で分裂が起きます。この二つに分裂した自己像を統合することは難しく、ありのままの自分を愛することは出来なくなります。性被害や虐待などに遭った人は、トラウマ後に優れた「精神」をもつかもしれません。彼または彼女は非常に聡明で感受性に富んでおり知的にも優れていて、高度な創造的で芸術的な営みに精通しているかもしれませんが、どこか活気さや親密さ、身体性が欠如していたりします。そして、こころの内的人物像がこれ以上傷つかないようにと、外の世界の人々とのあらゆる可能性は危険なものであると判断し、現実との接触を妨げるために魔法をかけています。彼または彼女は、こころの内的人物像が念入りに作りあげた防衛的ファンタジーの世界にすっかり耽溺していき、外の世界の人々と結びつく喜びを失っていきます。  

 

▶身体の極(生き残るために強さや美しさを求める)

 

不条理な環境に置かれて、父親から母親への暴力を見てきたり、みんなの前で晒し者にされたり、虐待やいじめに遭ってきた人は、よわよわしい無力な自分を憎みます。弱くて小さいありのままの自分では生きては行けないので、生き残るための一つの方法として、力を求めて、強くなって、冷酷になって、特別な人間の側に回ろうとします。そして、誰もが目で見てわかるような外的価値を獲得するために、素晴らしい身体的な美しさや強さを求めようとします。身体的な美しさや強さ(他者との関係で承認された良い部分)のほうがもともとの無力な自分(他者との関係で不承認される悪い部分)を批判したり、なんとか追い出そうとしたりするので、高められた身体と低められた無力な自分との間で分裂が起きます。この二つに分裂した自己像を統合することは難しく、ありのままの自分を愛することは出来なくなります。トラウマ後に優れた「身体」をもつかもしれません。彼または彼女は自分の肉体への鍛錬やダイエットを経て、美容、マラソン、ボディービルなどで素晴らしい偉業を達成するかもしれませんが、どこか傷つきやすさや思いやり、精神性が欠如していたりします。そして、こころの内的人物像は、もう二度と侮辱されたり、恥をかかされたりしないようにと、虚勢や見せかけの完全主義で外面を取り繕うように目を見張っています。  

 

▶快楽の極(人間であるという体験の喪失から強迫的に快楽に耽る)

  

養育者から世話をしてもらった体験が欠けている人は、その欠如により生じた私は人間であるという体験の喪失が、強迫的に不満足にして一層の刺激を欲する状態に置かれます。こころの中には、最初の世話をしてくれる養育者の代理人であるこころの内的人物像がいて世話をしてくれます。こころの内的人物像は、本当に求めるものの代わりとなる代用物を提供するので、彼または彼女は、快原則(食べ物依存、セックス依存、買い物依存、恋愛依存、薬物依存、アルコール依存、ギャンブル依存など)の欲望に耽るようになり、本当の親密さにはほとんど無関心です。また、身体的な快楽に耽るために、他者に対して性的に誘惑的であり、魅惑的で、心を引きつけ、思わせぶりな態度を取ります。